天保 七年 本多流流祖利實は、徳川家旗本、初代八十郎より 大正十二年 本多利時宗家二世継承
数えて十二代目利重の長男として出生。(利重は 東京府立第一中学校教諭
尾州竹林派津金新十郎保胤に師事、その蘊奥を体 東京帝国大学学生弓術教導
得、尾州竹林派の宗を嗣ぎ、文政十二年十一月に 東京美術学校弓術指南
十一代将軍家斉公の前で名誉の大的上覧を勤め大 大正十三年 第一高等学校弓術師範
いに賞される。) 東京高等師範学校本校体育科教導
天保十二年 尾州竹林派津金保胤門に入る。 大正十四年 社団法人生弓会発足
慶応 二年 尾州竹林派印可を受ける。 昭和 五年 東京高等高校武道教師
明治十八年 本多利重没 生弓会本部道場新築
明治二五年 第一高等学校弓術教授 昭和十四年 東京女子高等師範学校講師
明治三五年 東京美術学校弓術部教授 昭和十六年 東京高等体育学校教授
帝国大学運動会弓術部師範 昭和十八年 財団法人生弓会に改組
明治三六年 華族会館弓術教授 昭和二十年 本多利時病没
明治三八年 学習院弓術教師 昭和二七年 本多流研究会発足
明治三九年 千葉県師範学校弓術部教師 昭和三八年 本多利生(としなり)宗家三世継承
千葉県専門医学校弓術部教師 昭和四十年 東京外国語大学弓道部師範
明治四十年 真宗大学弓術部教授 昭和四七年 東京大学弓術部宗家師範
明治四二年 大日本弓術会教授 平成 六年 本多利生没
大正 六年 本多利實没 本多利永宗家四世継承
生弓会発足
本多流は明治の中葉、故本多利實翁が日置流竹林派からでて、古来からの射を改め、武道と体育の調和を主眼として従来の斜面打起を廃して正面打起となし、儀礼を取り入れたのと同時に、姿勢の左右均衡を計ったものであります。
利實翁は東京帝国大学、第一高等学校、東京美術学校等の弓道師範をやっておられたのと、その高邁な識見と、円熟した技術とを敬慕する門人雲集し、その人々は或は東北に、或は九州に、或は遠く満州、南洋等に各その道を伝えて此の正面打起は滔々として全国弓道界を風靡するに至り、この正面打起の竹林派を世間では本多流と称へる人達もでてきたほどでしたが、翁自らは決して本多流とは言はれなかったのです。
大正六年翁の没後、嫡孫利時氏が宗家を継ぎ、生弓会を起こすに及んで始めて利時氏自身も本多流を称するに至ったのです。利時氏の時代には前述の諸学校の外、更に学習院、文理科大学、國學院大學等の弓道部もこの本多流を学んだのでした。
明治末から大正、昭和にかけての弓道界の指導的立場にあった人々の多くは、故翁の門を出た人々であったと言へる有様で筆者の思い浮べる事のできる人々だけでも、立入春太郎、村尾圭介、碧海康温、屋代三の諸氏、その他九州の石原七蔵、会津の大平善蔵、仙台の阿波研造の諸氏等、実に弓界の大先覚が沢山おりました。
本多流は、前述の如く尾州竹林派から出ておりますので、打起(中力、大三)の外は大体尾州竹林派によっており、射形も亦足踏、胴造、弓構、打起、引取、会、離(残心)の七道となっております。
高木棐著 「本多流について」より
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