本多流は、日置流尾州竹林派より出ている。〜中略〜日置流は應永年間に到り、日置彌左衛門範次より、 石堂竹林坊如成之を傳へて、日置流竹林派を稱へ、更に竹林派は、石堂林左衛門貞直が正統竹林派を。 瓦林與次右衛門成直、紀州に仕官して、紀州竹林派を、長屋六左衛門忠重、尾州に仕へて尾州竹林派を 稱するに到つた。

尾州竹林派はかの京都三十三間堂の指矢にて高名の星野勘左衛門茂則、渡邊甚左衛門寛等その流派を 継承して、尾州、津金新十郎保胤より本多八十郎利重に、更に本多流の流祖となった本多利實翁に その傳統を傳へたのである。本多八十郎利重は譜代の旗本で、文政十二年十一月三日吹上御庭、現在 の吹上御苑で、大的を將軍上覧に達して居るが、利實翁はその嫡子として幼少より射を嚴父に學ばれ、 大正六年十月、八十二歳にて歿せられるまで、維新の變革に際して、既に弓道が武器或は武具としての 價値を失ひ、更に明治の初めの歐化萬能の變遷期に当つては、武道としても全く衰微の極にあつた時代 より、今日の弓道隆昌を齋すに至るまで、終生弓道の普及發達のために精進せられ、その一生は全く 弓道のために生きたと稱するも決して過言でない努力をもつてして、弓道復古の完成をなした弓道界の 一大恩人である。

碧海康温 「本多流弓道」より



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